映研の最初と最後



[映研の話][映研資料室]


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 駒大映研スペースジョースが消えてしまったのはいつからなんでしょうか。その誕生の経
緯も、資料がもう手元に残っていませんので、詳しくはわかりません。ただ第一回作品とさ
れている「ウルトラセブンJr.」が製作されたのが1978年。当時、製作部門と映画学部門と
いう二つの部門を有する駒澤大学映画倶楽部というものが存在していて、その製作部門が
分離したものが映研となったようです。製作部門の初作品が1975年「おしらさま」「雨夜の
月」を含む短編12編。翌76年に初の長編「君の夏の終わりに」が完成。77年には「セピア
カラーに揺れる男のバラード」「青春の翳り」「CMパロディー」(一年映画のようなもの
か?)。78年に「激動の青春'78・闘魂」「ウルトラセブンJr.」と製作を続けるうちに、製作費
の折半の問題が出てきたんでしょうね。映画学部門は16ミリ映画を借りてきて、上映会を行
ったり、研究をするわけですから、自主映画の製作とはそもそも方向性が違います。本家で
ある映画倶楽部は分離後急速に解散の方向に向かったものと思われます。映画倶楽部の
更にその前身は駒澤大学映画史研究会という呼称だったそうです。


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  映研で私は三年生の時に「製作部長」をやってました。つまりは機材管理部長でして、自
分の下宿の押入が倉庫になると言うわけです。映研の製作したフィルムの管理は代々、製
作部長の仕事でもありました。 卒業後、映研製作作品25本を記念して、上映会があったの
を機に、全25作をすべてビデオにする作業なども手伝ったので、わりと後輩との連絡は付
いていました。しかし更に何年かが過ぎ、いよいよ現役の会員たちと面識が無くなる頃、歴
代のフィルムの管理が難しくなって散逸が激しいと言う噂を聞き、当時の製作部長から初期
のフィルムを可能な限り、譲り受けてきました。現役の会員たちにとって旧作の保管はかな
り負担になっていたのです。かなり傷んでいるはずですが十数本のフィルムが私の家の押
入で今も眠っています。