映画倶楽部の年間活動






4月の活動

 映画倶楽部に限らず、各サークル共通の活動が新入生の勧
誘です。

 映画倶楽部はいつも駒大の正門を入ってすぐの大学キャンパ
スの噴水の 前に出店と称する机を置いて新入生の勧誘を行っ
ていました。そして勧誘活動の 一環として学内において映画
の上映会を行いました。1975年の勧誘の為の上映会はアニ
メの鉄腕アトムとジャングル大帝でした。

その後のスケジュー

(製作部門の場合)

 そして新入生がある程度入って来ると、新入生歓迎コンパと
いう飲み会が行われます。そしてその後は製作部門と映画学
部門に別れての活動になります。

 製作部門は先ず、8ミリカメラの使い方から始まります。 駒沢
公園あたりに出て、撮影の練習をするわけです。

 1975年は製作部門は出来たばかりの部門でしたから撮影
訓練の後はいつも討論会ばかりだったそうです。

 しかし76年以降は先ず部門員全員で短編シナリオ作成の練
習がありました。 この時の短編シナリオの中にはとてもよいも
のがあったりすることがあります。

 しかし現実には映画倶楽部・製作部門の作品として採用され
る事はありません。改めて長編を書き、選考会で選ばれて初め
て、晴れの大学祭上映作品となるわけです。 ただ毎年の悩み
の種として浮かびあがって来るのが女優の事でした。当時の映
画倶楽部の女子部員はあまり映画に出たがりませんでした。ま
して女子部員は映画学部門に 多いので仕方ないかも知れませ
ん。 映画倶楽部の映画の主演女優は他所のサークルの人と
か、倶楽部員の知り合いがが多かったそうです。

その後のスケジュー
ル(映画学の場合)

 映画学の場合、先ず4月の新入生勧誘活動の一環として学
内において映画の上映会があります。映画学の活動の一番の
イベントが大学祭での16ミリ映画を借りてきての上映会です。

普段の映画学の毎週の倶楽部活動は座談会形式で映画の講
評をしていました。 ですから映画倶楽部に入部してきた女子部
員はこのイメージで映画倶楽部に入って来た人が多かったよう
です。

指定映画合評会

 指定映画合評会は製作部門も含めた、映画倶楽部員全員の
活動でした。倶楽部員全員で指定された映画を見て討論会を
する訳です。

そして回を重ねる内に討論会も白熱してきて、とてもいい雰囲
気でした。

 当時の映画倶楽部で選ばれた指定映画は、「欲望という名の
電車」、「カッコウの巣の上」、「マンディンゴ」、「七人の侍」、
「証人の椅子」、「私は貝になりたい」、等です。

 この指定映画合評会に指定映画を提案して、その映画が指
定映画に通ると提案者は合評会までにその映画の事を色々と
調べて来て、皆に配る資料を作成しないといけませんでした。

 そして提案者としての解説や合評会の締めがうまく纏められ
た爽快感は何とも言えないものだったとの事です。もしかする
と、この指定映画合評会が一番、映画倶楽部のイメージにピッ
タリの活動だったのかもしれません。

映画倶楽部の合宿

 映画倶楽部では年に2回の合宿がありました。 夏休みと長
い春休みの2回です。

 74年が駒大の保養施設のあった野尻湖で、75年の夏が志
賀高原でした。

 76年春が伊豆の田牛海岸で、76年の夏が富士五湖の西湖
でした。

 77年春は不明です。77年の夏が車山高原で、78年の春の
合宿は不明です。

 そして78年の夏が日光でした。この時は日光東照宮でウル
トラセブンJrのロケをやったそうです。

大学祭

 やはり大学生にとっての一番のイベントが大学祭でした。 夏
の合宿の後の新学期が映画倶楽部のみならず、各サークルの
一番慌ただしい時期となります。

 製作部門は大学祭に上映する自主上映作品の製作が佳境
に入りますし、映画学は学祭の上映作品の選定があります。倶
楽部の予算との兼ね合いもあり、とても大変だったようです。

それと75年と76年は模擬店で焼きおにぎりと甘酒をやったの
事で本当に忙しかったらしいです。

そしてこの時一番忙しいのが、3年生の倶楽部三役です。幹事
長と、製作・映画学の各、部門長でした。何しろ良い場所を取ら
ないと映画上映がうまくいかないのですから、倶楽部員全員の
期待を背に受けての折衝役でした。

他映画サークルとの
合同上映会

 駒大には映画倶楽部の他にシネマプロデュ−スと8ミリ同好
会という2つの自主上映作品を製作するサークルがありまし
た。この二つのサークルは2003年現在でも活動しているよう
です。

この合同上映会は学祭が終わってしばらくしてから行われまし
た。特にシネマプロデュ−スは1番のライバルサークルとして、
当時はお互いに意識し合っていました。

 8ミリ同好会は毎年必ずアニメをやっていました。ですから映
画倶楽部やシネプロもあんまり意識した感じはありませんでし
た。この合同上映会は75年にはシネプロと映画倶楽部の2サ
ークルでしたが、76年からは8ミリ同好会も交えての三者で行
われました。

 上映会の最後は各サークルでの意見交換会が行われまし
た。ライバル意識むき出しの映画倶楽部とシネプロの意見交換
の最中、8ミリ同好会は冷ややかに見守っていたような雰囲気
がいつも漂っていたような気がします。これは8ミリ同好会がア
ニメを撮るサークルであった為、映画倶楽部やシネプロの様に
ライバル意識を持つ事はなかったからです。

その後の行事

 合同上映会の後は年明けに卒業生を送り出す追い出しコン
パと長い春休み中に行われる合宿があります。映画倶楽部の
追い出しコンパが初めて行われたのは、1977年です。翌78
年も行われましたし、79年も行われました。

後書き

 以上映画倶楽部の活動及び行事についてかいつまんで記筆
いたしました。
1975年から1979年まで駒大映画倶楽部に所属していたハンドル名はムーという大先輩の原稿です。